昭和30年代の高度成長期、大都市近郊の非電化通勤路線向けとして開発され、1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)にかけてグループ総計で413両が製造された。関西本線を皮切りに首都圏・新潟・中京圏・関西・北部九州を中心に日本各地で使用された。
旅客乗降の効率化のため、両開きの幅広ドアを片側あたり3か所に設け、収容力を重視して車内の座席をすべてロングシートとしたことが特徴である。
国鉄は1957年に斬新な通勤形電車101系電車を開発し、中央線などに投入して輸送改善の成果を挙げていたことから、本系列についてもこの基本構造を踏襲しており、オールロングシート・切妻形の簡素な車端形状・気動車としては初採用となる1.3m幅(有効幅は1.2m)の両開き扉・グローブ形ベンチレーター、前面行先表示器・蛍光灯照明・扇風機の装備などが該当する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/国鉄キハ35系気動車

【外吊り扉の採用について】
当形式の開発当時、気動車が導入される路線の駅は客車列車に合わせた低いプラットホームであった。従って、気動車についても客用扉を客車同様の高さに設置していた。
その場合、扉の下部及びステップの下段部が車体の床面より低くなるため、車体の基礎部となる台枠に切り欠きを入れる必要が生じる。戸袋を伴う引戸であれば、戸袋部も含めた切り欠きが必要となる。
従来の気動車で採用されていた片開き2扉であれば台枠の切り欠きは比較的少なくて済むが、両開き3扉になると切り欠きが長大となり、車体強度の確保が困難になると当時の国鉄は判断した。その結果、戸袋を廃することで台枠の切り欠きを極力少なくするために採用されたのが、当形式の外吊り扉である。

【JR東日本】
2012年まで幕張車両センター(久留里線)にて3両が配置されており、JR線の中では最後まで残ったグループであった。
本グループはエンジン換装を受けており、従来のDMH17HからDMF14HZへ載せ替えられている。

キハ30 62は1966年に日本車輌で製造され、勝浦運転区(外房線・木原線)に配置された。その後数回の転属を経て、1991年の相模線電化に伴い茅ヶ崎機関区(相模線)から幕張電車区木更津支区(久留里線)へ転属した。
その後はJR最後のキハ30として、キハ30 98・キハ30 100とともに2012年まで久留里線で運用された。
久留里線での運用終了後はいすみ鉄道国吉駅で保存されている。

キハ30 62+キハ30 98+キハ30 100@久留里線 東清川~上総清川

【水島臨海鉄道】
キハ30 100は1966年に日本車輌で製造され、高崎機関区(八高線・足尾線)に配置された。その後八高線電化及びキハ110系への置き換えに伴い、幕張電車区木更津支区へ転属した。
キハ30 62・キハ30 98と同じく、2012年まで幕張車両センター(久留里線)に在籍していたグループである。
久留里線での運用終了後は水島臨海鉄道へ譲渡され、 キハ37・キハ38とともに運用されている。なお、本形式は基本的に秋~冬季の平日のみ運用されている。

キハ30 100@水島臨海鉄道水島本線 倉敷市~球場前
キハ30 100@水島臨海鉄道水島本線 倉敷市~球場前
キハ30 100@水島臨海鉄道水島本線 倉敷市~球場前